NFTの是非論を超えて【オピニオン】

NFTの是非論を超えて【オピニオン】

熱心なNFT支持派と、同じくらい熱心なNFT反対派の間の文化的溝がここまで広がってしまったことは衝撃だ。

支持派にとって、NFT(ノン・ファンジブル・トークン)は自由の象徴で、クリエーターやユーザーが、インターネットプラットフォームから解放されるウェブ3という明るい未来へのチケットなのだ。

一方、反対派にとってNFTは、蔓延する貪欲さ、詐欺を誘引するようなインセンティブ、環境の度外視など、資本主義後期のあらゆる弊害を象徴する。

どちらの側も間違っている。

支持者たちは、あまりに楽観的な見方をしている。ウェブ3が、広範な人類の利害にかなったものに進化するには、多くの要素を整える必要がある。そのようなソリューション抜きでは、少数の日和見主義的初期参入者たちに、一時的に法外な利益をもたらすシステムに終わってしまう。

反対派の方はどうか?彼らはテクノロジーに対して凝り固まった見方を持っている。暗号資産(仮想通貨)への誤った批判の多くと同じく、業界の現状を部分的に切り取って見た時の問題点(イーサリアムの取引手数料の高さやスケーラビリティの低さなど)が、永遠に続くものと考えているのだ。

このことは、オープンシステム内でどのようにイノベーションが起こるかについてどれほど無知であるかを露呈している。モチベーションの高い何千もの開発者たちが、そのような問題点を解決するための努力をするどころか、認識すらしていないと、彼らは勝手に推定しているのだ。

ここで、私自身の見解を紹介しよう。私としては、NFTが、私たちのデータがインターネットプラットフォームに利用されず、アーティストやミュージシャン、写真家、ジャーナリストなどが、自らのファンと直接つながることのできる、新しいクリエーター中心・デジタル経済に欠かせない基盤だと考えている。しかしNFTは、構成要素にしか過ぎない。

その上に何を築くかは、私たち次第だ。私たちを解放してくれるものとなるかもしれないし、有害なものとなるかもしれない。その選択は、私たちに委ねられている。

デジタルの現状

NFTが果たす役割を理解するために、財産権の現在とこれまでを検討することは有益だ。(NFTそのものが、財産権を表すと言っているのではない。そのような権利を確立するために必要なデジタルインフラと法的インフラにとって、必要不可欠だが、それだけでは不十分な要素だと言っているのだ)

まず、デジタルの現状を見てみよう。今のところ私たちは、固有のデジタルアイテムを定義する手段を持たない。家や車など、アナログ世界での「モノ」が、人が保有し管理できる独立型「資産」として捉えれているような形で、デジタル財産として何かにラベルを貼ることはできないのだ。

私たちはデジタル時代の中で、著作権などの知的財産権のコンセプトを認め、それを行使しようとし続けている。しかし、知的財産権はデジタル財産そのものではなく、法律によって実世界とデジタル世界の中で行使されるよう義務付けたとしても、そのような世界の外に存在するものである。

そのような権利を行使することは、実世界では比較的簡単である。本やレコードなど、著作権を有するコンセプトが流通される容れ物は、簡単に複製や違法コピーをすることができず、知的財産そのものと別個の資産として認識されるからだ。

一方、デジタルの世界においては、PDFやMPEG、JPEGといったファイルの複製とシェアが大量に行われており、そのような考えは通用しない。だからインターネット時代の初期に、法律専門家たちは、「ファースト・セール・ドクトリン」の原則をデジタルファイルに適応しようとすることを諦めた。この原則は、例えば中古本の再販は認めるが、その中に含まれる著作権を有するアイディアを許可なく販売することを禁じるものだ。

重要なのは、デジタル所有物などといったものは存在しないという点だ。その延長として、デジタルファイルを保有したり、再販したりする権利という意味でのデジタル所有権というものも存在しない。

だからこそ、デジタルコンテンツファイルのオンライン版シリアルナンバーとでも言うべきものになる可能性を持つNFTの発明が、非常に重要なのだ。財産を特定するための、その延長として、所有権を確立、行使することを可能にするソリューションを開発するための枠組みを提供してくれからだ。

アナログの過去

歴史を通じて、所有権をより広範な範囲に拡大することは、経済的、社会的発展を促してきた。

例を挙げてみよう。ジョン王とイギリスの貴族たちの間で合意された、1215年制定のマグナ・カルタ。1602年、初の株式会社となるオランダ東インド会社の設立。約90%に当たる4億7000万軒近くの自宅所有につながった、毛沢東時代後の中国における私有財産権の法定化など。

ペルーの経済学者エルナンド・デ・ソト(Hernando de Soto)氏は、所有権と、その権利をめぐって生じる法的に強制力のある契約が、欧米民主主義国の経済的成長と、発展途上国の低迷とを分けるものだと主張した。

デ・ソト氏の主張は、所有権の構成要素としてのNFTという考えが、魅力的な理由を示唆している。世界がかつて経験したことのない、富の創造の素晴らしい瞬間となるかもしれないのだ。

しかし、所有権をある特定の人たちに与えることだけでは、活発でダイナミックな経済、ましてや均等な機会への道を確保できるものではない。

ブエノスアイレス州知事を務めた独裁的指導者フアン・マヌエル・デ・ロサスは19世紀半ば、アルゼンチンの先住民に戦争を仕掛け、彼が没収した肥沃な大草原の土地は、彼の家族と、最も忠実な少数の指揮官たちに分け与えられた。

この広大な土地の付与は、法律の重みを伴うもので、行使可能な所有権を含んでいたが、その結果生まれたのは、えこひいきな政治システム。これが現在でも、アルゼンチンの民主主義や、持続可能な経済発展の力を弱めている。

対照的に、植民地オーストラリアのニューサウスウェールズ州の「未占有の」土地は、完全に王のものとなった。(ここで「未占有」とカギカッコ付きで表記しているのは、2世紀にわたってアボリジニーの土地の権利を法律が無視していたからだ)

その後土地は小分けにして、自由になった元受刑者たち、外国での戦争から帰還した兵士たちに分配された。努力し合う多くの小規模土地保有者たちから構成されるオーストラリアの土地経済が、少数の軍事独裁者たちが世界でも有数の肥沃な土地を独占していたアルゼンチンより生産的なものとなったのも、当然だ。

ここには、開発者たちがテクノロジーをスケーリングし、実世界に応用できるようにしていく中で、NFT、そしてデジタル所有権のコンセプトにとっての教訓がある。

構成要素

繰り返しになるが、NFTの保有者は、自動的に所有権を持つ訳ではない。トークンをコントロールできることと、そのトークンが指し示すアートの所有権は、はっきりと異なる。

しかし一部のスタートアップは、ある種のNFTを、正当な所有権を主張するために使うことができると証明するために、ソリューション開発に取り組んでいる。彼らのモデルが成功すれば、デジタル所有権のまったく新しいシステムの構成要素として、NFTがその力を発揮するのに役立つだろう。

このようなソリューションが登場しているのは、資本主義が要求しているからだ。ハリウッドの映画スタジオやメディア企業は今や、NFTにできるコンテンツへの権利を確立し、割り当てるための、法的に強制力を持つシステムをNFTが必要としているという事実を受け入れている。

しかしそれが、広範な市民の利害にかなった形で発展していくという保証はない。その結果も、私たち次第だ。

私たちに分かっていることは、NFTは無くならない、ということだ。そして所有権への架け橋も造られるだろう。NFTの不公平さや派手さを非難することに、意味はない。

より良いデジタル世界を作りたいと思うなら、実世界での所有権の歴史から教訓を学び、より広範な大義の役に立つソリューションを築いていこう。

|翻訳・編集:山口晶子、佐藤茂
|画像:Shutterstock.com
|原文:Getting Beyond the Good-Bad NFT Debate

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