メタバースで悪役を演じる時に注意すべきこと【コラム】

メタバースで悪役を演じる時に注意すべきこと【コラム】

どんな世界にもトップの座を奪おうと狙う人たちはいるが、ほとんどの人はルールに従って、できる限り悪いことはしないようにしている。それでも、あらゆる人の中には、複数の人格が眠っており、私たちの道徳的コンパスは石に刻まれて固定されたようなものではない。

現実の世界で良き人であろうと必死に努力している人にとって、お気に入りのインターネット上の悪の巣窟で少し悪さをしてみるのも、楽しいものだ。

インターネットは長年、人々が好きなことをし放題、なりたいものになり放題できる解放的なはけ口として機能してきた。初期のインターネット上のチャットルームは、個性の発現(と混沌)の拠点となっていた。

没入型ゲームやメタバース体験の台頭に伴って、人々は自らの闇の部分も含め、性格や興味関心のあらゆる側面を探るための方法をさらに多く手にしている。

もちろん、非常識な行動がすべてメタバースだけに追いやられた訳ではない。普通のインターネットの世界にも、セクハラにヘイトスピーチ、違法コンテンツがあふれており、人々はお互いに嫌な思いをさせるためにテクノロジーを悪用することにかけては、恐ろしいほどにクリエイティブだ。

とりわけメタバースでは、メタバースでのアバターが性的ハラスメントを受けた時に、実際に自分が被害を受けているように感じたと報告する人もいることを考慮すれば、この点に関して懸念が大きい。

オンラインアバターに向けられた身体的ハラスメントは多くの場合、伝統的ソーシャルメディアプラットフォームでの言葉のハラスメントよりもさらにダメージが大きく感じられるというのも、驚くことではない。

すべてのオンライン環境が、同じ倫理的枠組みの中で機能している訳ではなく、「善」と「悪」という言葉は、文脈に大きく左右されるということに、留意する必要がある。

「メタバース」というコンセプトが、バーチャルリアリティゲームに留まらないものへと進化を続け、デジタルコミュニティが形成し始める中、実際のウェブ3ゲームと、「ゲーム化された」ソーシャルフォーラムの違いを意識し、どのような行動が許されるのかについて、合意を形成する必要がある。

道徳的多義性

オンラインゲームの世界では、悪ければ悪いほど良い、と言ってもいいだろう。メインストリームのエンターテイメントに関しても、今はアンチヒーローの時代であり、スクリーン上の悪者たちは正義の味方と同じくらい共感できる存在だ。

同じように、ビデオゲームでもますます、プレイヤーが自らの道徳的多義性を探ることができるようになっている。ビデオゲームにおいて、奇抜な形での自己探求やカタルシスが可能になるのは、それが受身的なエンターテイメントではなく、プレイヤーに幅広い選択肢が提供されるからだ。

そして、ゲームというフィクションの世界では、多くの人がかなり常軌を逸したような行動を取ることを選ぶ。

インターネットは結局のところ、無節制と結果のバランスを改める場であり、ゲーム内で好き勝手にすることは、ほぼ常にそれに伴う結果を補って余りある喜びをもたらしてくれるのだ。

もちろん、皆が皆、ビデオゲームの中で悪人になることを楽しむ訳ではないし、それは当然だ。しかし、『ビデオゲーム内での道徳的選択』と題された研究論文は、道徳的に曖昧なゲームプレイが、「道徳的懸念を認知的に放棄」することを可能にし、「道徳的に非難されるべき行為をすることを期待されたり、義務付けられた場合でさえも、プレイヤーはゲームを楽しむことができる」と主張している。

現実界で悪人ではなくても、ゲームの中で架空の王国を時々包囲することはできる。しかし、ゲームメタバースは実際の世界を反映することになっていなくても、興味深い類似点が存在するのだ。

実世界

トルストイの有名な言葉に、「幸福な家庭はどれもみな同じようなものであるが、不幸な家庭にはそれぞれの不幸の形がある」というものがある。この言葉は、誰かの1日を台無しにする百万の方法を考えつく方が、1日を明るくするいくつかの方法を思いつくよりも簡単だという点で、日々の暮らしにおける「幸福」と「不幸」にも当てはまる。

メタバースは、この傾向をさらに強める。

オンラインゲームで悪者になることで、プレイヤーは一段と多くのオプションと自由を手にすることができる。「善人」の場合には、ゴールやプレイスタイルが狭められることが多いからだ。

もちろん、ヒーローとしてと悪者として、どちらの方がプレイヤーがより多くのオプションを手にできるかは、ゲームの設定次第だ。これはとりわけ、プレイヤーアクションや結果の可能性が、元々開発者たちが予測したよりも無限に多く存在するオープンワールド型のゲームではなおさらだ。

ゲームプレイに対するこのような探求的なアプローチはおそらく、プレイヤーをより幅広い視点に没入させるもので、プレイヤーとしては、より高水準の道徳的感度が必要となる。プレイヤーは自らの選択が最終的には、実世界に影響をもたらさないと知っていてもだ。

ゲームの中で起こることは、本当ではないことを私たちは知っている。ゲームは私たちが実世界で直面する一段と重大な選択から私たちを解放し、結果というしがらみから自由になって、別の視点から人生を探究させてくれるのだ。そのため、ゲーム内の逸脱行為はしばしば、気ままな好き勝手さという雰囲気をはらんでいる。

しかし、実世界をより反映するように作られたメタバースも存在する。それらの多くは、ゲーム化された体験も伴っているが、これらの環境はより「リアルな」ものとして受け止められ、純粋に現実逃避的なメタバースで許されることとは異なり、伝統的な道徳観により沿ったものに支配されるべきだと言って構わないだろう。

設計上の決断

オンラインでの人々のアイデンティティや経験がシフトし、より「リアル」に感じられ始めるに伴って、私たちのオンライン上での決定の重大性は高まる。

OWOやH2Lなどの企業が、温かみのあるハグから銃弾を受けた傷まで、メタバースでユーザーがあらゆるものを感じられるようにする感覚デバイスを作っていることから、ゲーム内の行動でさえも、この先ますます重みを増す可能性はある。

倫理的なメタバースには、信頼できるAIのモデレーターが必要だと主張する人もいるが、ブロックチェーンネットワークは、特定のユースケースに合わせた持続可能なインセンティブシステムの上で実行されるように設計されている。

オンチェーンプロジェクトを補完したり、補強する中で、他のテクノロジーが役割を果たすことは間違いないが、結局のところ、楽しさと安全性を優先する包括的インセンティブシステムを設計する責任は私たちにあるのだ。

ブロックチェーン基盤のプラットフォームには、ユーザーがアクティブなゲームプレイを通じて、デジタルアバターやその他のアセットをカスタマイズし、進化するオンラインアイデンティを真の意味でしっかりと保有し続けられるとという利点がある。

つまり、オンラインヒーローでも、悪者でも、その中間の存在だとしても、メタバースの場合には実世界と同じように、デバイスをオフにした後も存在し続ける、唯一固有のアイデンティティがあるだ。

メタバース市民の皆さんには、自分が逃避的なゲームに参加しているのか、実世界の延長線上に暮らしているのかをしっかりと意識して、有害な形で他の人たちに影響を与えずに悪さをすることをおすすめしたい。あるバーチャル環境で誰かに罵り言葉を浴びせることは、別のバーチャル環境で誰かの頭を切り落とすことよりも、はるかに有害で重大なことにもなり得るのだから。

なにごとも、ほどほどに。誠意を持って、悪役を演じることを楽しんでもらいたい。

スティーブン・ナ(Steven Na)氏は、消費者優先メタバースエンターテイメント企業ヒューマン・パーク(Human Park)のエグゼクティブプロデューサー。

|翻訳・編集:山口晶子、佐藤茂
|画像:Shutterstock
|原文:Why It Can Feel Good to Be Bad in the Metaverse

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