テンセント「最強の法務部」が騙された?──偽契約書が中国で電子署名・ブロックチェーン導入の契機となるか

アリババと時価総額で中国トップの座を激しく争っているテンセントの“最強の法務部”が、3人の詐欺師にあっさり騙された──。

テンセントは2020年6月、中国では有名な辛味調味料メーカー「老干媽」を相手に訴訟を起こした。原因は、偽印章の契約書に騙されたという、IT巨頭らしからぬ失態だ。テンセントといえば、特にエンタメに強く、ゲーム、映像、音楽、文学など、さまざまな著作権裁判で勝利を重ねている。法務部は“最強”と言っても過言ではない。

この事件は契約の安全性に関する議論につながりそうだ。改ざんできないブロックチェーン技術や、電子署名にもスポットが当たるかもしれない。

テンセント事件の概要 どう騙されたのか

報道によれば、この事件は、3人の詐欺師が有名な辛味調味料メーカー「老干媽」の印章を偽造、架空の提携契約を交わした。テンセントはその契約に基づき、ゲームのプロモーション活動に、老干媽の創業者である陶華碧女史のイラストなどを使用した。

しかし、テンセントは対価を何も得られなかった。老干媽は我関せずの態度を貫いたため、テンセント法務部は裁判所に訴えたのだ。広東省深圳市南山区人民法院は6月30日、テンセントの訴えに同意し、老干媽の資産1642万元(2億5000万円)の差し押さえを命じた。

老干媽は公式サイトすら持たない古いタイプの会社である。対照的な有名企業同士の争いは大いに世間を騒がせた。そして中国の契約や証書の安全性に注目が集まった。

中国の電子署名、浸透率は10%に

中国では、デジタル時代に向けて、電子署名・電子契約を民法に盛り込む改正のための議論が進んでいる。

2020年5月下旬に行われた両会(全人代、政治協商会議)でも、民法改正が大きなテーマだった。中国の民法は1260条10万語以上の中国最大の法律で、2014年に再編されて以来、170回の修正意見が提出されている。今年の両会でもまだ意見集約が行われ、デジタル時代の民法へ向け、モデルチェンジの途上にある。電子契約に関する条文が追加されつつあるが、印章や指紋押捺の規定も残っている。今は両論併記の過渡期なのだ。

ちなみに、一般に政府の公文書には丸もしくは楕円の赤い大型印が使われる。企業や個人などの契約書(私文書)では、企業は押印するが、個人は自筆の署名のみのことが多い。

たとえば不動産を持つ個人が法人に貸し出す際に交わす不動産賃貸契約の書類では、書類上部に貸方の個人名、借方の法人名、仲介不動産会社の名が記載されるが、押印しなければいけないのは、借方の会社だけだ。そして書類の最後には、貸方、借方ともに“自筆署名”をして、仲介の不動産業者が社印を押す。つまり家主は押印しなくてよく、法人は押印が求められる。

ただ、電子署名(簽名)は着実に増えている。2019年には政府財政部、海関総署(税関)、交通運輸部、人社部などの中央省庁が電子署名の推進を表明した。企業での取引にも電子署名は浸透しつつある。

中国のリサーチ企業・iiMediaがまとめた「2019中国電子署名行業専題報告」によれば、平均浸透率は10%弱。2019年、中国の電子署名を利用した契約書は279億枚、前年比317%増だった。さらに2020年は500億枚に達する見込みだ。採用率の高い業界は、製造業 26.1%、金融業 19.3%、小売業 12.9%、ネット関連10.8%──などとなっている。

中国電子署名のトップ3とは

中国では既に電子署名の“業界”が形成されている。代表的な3社を紹介しよう。

e簽宝(イーチェンバオ)……2002年設立の先駆者、トップの座は盤石

2019年末までの累計署名数は105億、個人ユーザー2億5,000万人、企業ユーザー数は、437万社に達している。一日当たり平均電子署名数は2000万、業界シェアは40%と見られている。アリババ、百度、京東など大手の出資を受けており、支付宝(アリペイ)とも提携している。

上上簽(シャンシャンチェン)……ブロックチェーンを活用、全生涯をカバーする

契約の“終身安全”を掲げ、ブロックチェーンによるクローズドループの全生涯契約管理サービス網構築を目指す。また企業向けには、物流、自動車、金融、不動産賃貸など8つの業界パッケージ立ち上げ、提供するソリューションは100に上る。

法大大(ファーダーダー)……テンセントグループの一員として戦う

テンセントのSaaSエコシステムに加入し、共同で企業ユーザーを開拓する戦略を取っている。同社の創業メンバーには、多くの法律関係者が関わった。契約時だけでなく、契約書作成と管理、契約後の法律サービスまで、提供の幅を広げている。充実した法務部門は大きな強みといえよう。

テンセントが契約・証明で進めるブロックチェーン化

テンセント自身も契約書、証明書のブロックチェーン化を進めてきた。「法大大」も参加する自慢のSaaSエコシステムのどこがすぐれているのだろうか。ネットメディア「雲掌財経」は、テンセントのブロックチェーンを“実務励行”と表現している。従来産業とのリンクについては最速という評価だ。

実績も十分にある。2018年8月には、深セン市税務局と連携し、中国初のブロックチェーンによる電子領収書を発行した。支払い、請求、決済、課税を一元管理し、コスト削減を達成しただけでなく、脱税や粉飾決算などにもメスが入るきっかけさえ作った。2019年8月には、ブロックチェーンによる地下鉄の領収書を電子化し、年間数十万元の印刷代を節約したという。

2020年に入っても、テンセントセキュリティ(子会社)が4月、北京市方正公証処(市役所の戸籍部に近い役所)と提携。またネットメディア・中国新聞網は7月、深セン市とテンセントがブロックチェーンによる破産処理プラットフォームを立ち上げると報じた。

このようにテンセントは伝統的な紙の契約書、証明書に対するソリューションを常に進化させてきた。産業界の基本となる契約・証明問題の実務を励行していた。

これに対しアリババのブロックチェーンは、公益(寄付、義援金)、商品のトレーサビリティ、医療、知的財産権などに絞っている。華々しい目立つところばかりを狙っているともいえる。

業界活性化へ貢献か、フォビも積極的な動き

実務励行型のテンセントが紙と印章の契約書にだまされたのは、やはり皮肉というしかない。従来型の契約書が危険であることを身を持って証明してしまった形だ。テンセントは世間の嘲笑とバッシングに耐えかねたのか、7月中旬には裁判の和解に応じた。

この事件はブロックチェーンの推進につながるのだろうか。少なくとも他社はチャンスととらえているようだ。メディアは中国暗号資産の草分け企業、フォビに注目しているようだ。同社のブロックチェーンを使った「フォビ中国BaaSプラットフォーム」は人事採用活動にフォーカスしているが、これを利用すれば、身元照会、経歴証明は簡単で、今回のようにだまされることはないだろうと地元メディアは指摘している。

また別のメディアは、アリペイは2019年7月の「支付宝宣布用区塊鏈解決供応鏈偽合同問題」(アリペイの偽契約書問題に対するブロックチェーン利用の解決案)で、印章偽造の問題を指摘していたと報じた。アリババにしてみれば、ライバルのテンセントがその指摘の正しさを証明してくれたかっこうだ。子会社のアント・ブロックチェーンは、特許出願中の新しいセキュリティを採用し、偽契約書問題に対処しているという。

今回のテンセント事件は、契約書の重要性を知らしめ、ブロックチェーン業界への関心を高めたのは間違いなさそうだ。中国では近い将来、全生涯にわたる契約管理が、ごく当たり前となるのかもしれない。

文:高野悠介
編集:濱田 優
画像:Stefano Zaccaria, StudioSmart, Steve Allen, Santa pa, FoxyImage / Shutterstock.com